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■ 植物標本作りプロジェクト

◆ はじめに ◆

 軽井沢では,かつて東京大学の原寛先生や軽井沢町植物園の前園長だった佐藤邦雄先生がたくさんの植物を採集し,採集された植物のリスト(フロラリスト)は「軽井沢の植物(原・佐藤・黒沢著)」として1974年に出版されています.具体的に個々の植物がいつ頃採集されたかはわかりませんが,仮に1970年頃だとしても,採集されてからすでに40年以上が経過しています.このときに採集された植物のほとんどは東京大学の小石川植物園に収蔵されており,一部の研究者には閲覧可能ですが,地元の軽井沢には標本が残されていないため,軽井沢を訪れる一般の観光客だけでなく軽井沢の住民でも簡単には閲覧できない状況です.
 原先生たちが精力的に標本採集をおこなっていた時代からすでに半世紀近くが経過しているわけですから,その頃に比べれば軽井沢の土地利用や植生も大きく変貌を遂げているはずです.「もう一度見たい! 軽井沢の草原・湿原(軽井沢サクラソウ会議編)」にも,半世紀も前の軽井沢は現在とは全く異なる植生景観に覆われていたことが記されています.その時代の軽井沢には草原や湿原が広がり,人々の生活も今とはまったく違うものだったようです.当然ですが,そこに生育していた植物も異なっていただろうし,それにともなって昆虫や鳥,動物などの生き物も今とは違う種類のものが多く見られたかも知れません.人々の暮らしぶりや土地利用の変化にともなって,半世紀前に生育していた植物がどのように変わってきたかを正確に知るためには,軽井沢全域で原先生たちと同じように植物採集をおこなう必要があります.
 そこで軽井沢サクラソウ会議では,半世紀前の軽井沢から現代までのあいだに,軽井沢地域に新たな植物が侵入したのか,あるいは絶滅したのかを明らかにするために,植物採集を実施し標本を未来に残していくことを計画しました.


◆「軽井沢の植物」のまえがき ◆

 軽井沢で夏を過ごすようになってから50年以上の歳月が流れた.英国人に見出されたこの土地は世界的な避暑地として知られるようになったが,私を魅了したのはその独特な美しい自然であった.碓氷峠に小瀬に,また南軽井沢の湿原に,私の植物の知識の大半はここで学び育てられたといっても過言ではない.
 しかし最近宅地造成とゴルフ場の新設が急速に進み,本州中部では希に見るこの美しい自然も無残に破壊されつつある.・・・・<省略>・・・・日本中部のこの特殊な自然環境をもつ軽井沢を何時までも世界的に愛される土地として保護することは日本国民の責務であると考える.軽井沢の施政にあたる方々は一本の道をつけるにも最新の注意と長い将来への見通しをもって企画し,少なくもこれ以上自然の破壊が進まないように特別な保護を行うよう積極的に配慮をしていただきたい.
 すでに手遅れの感はあるが,本書が軽井沢の自然保護の基礎資料として少しでも役立つことを願っている.・・・・<省略>・・・・

1974年2月 原寛 ロンドンにて


( 原・佐藤・黒沢著「軽井沢の植物」井上書店1974年発行から引用)

 

◆ 植物標本の作り方 ◆

 植物標本は,基本的には「押し葉」・「押し花」を新聞紙半面くらいの台紙(ケント紙などの厚紙)に貼り付けた形状です.この形状の標本をさく葉標本(「さく」という字は月に昔と書き,普通は「せき」と読みますが,常用漢字にも入っていない第三水準の漢字です)とも言い,多くの標本庫ではこの形状で保管されています.果実や種子の標本などでは押し葉・押し花の形にしないこともありますが,植物標本と言えばさく葉標本のことを指すのが一般的です.きちんとしたさく葉標本を作るには,多少の「お作法」が必要ですので,作り方を簡単に紹介しておきました.軽井沢サクラソウ会議メンバーで「植物標本作りプロジェクト」に参加を希望する人は一度ご確認ください(→標本作成法のページへ).


◆ 標本の保管について ◆

 軽井沢サクラソウ会議では軽井沢町内に標本室を設置してもらうように関係各機関に働きかけていくつもりですが,当面のあいだは標本の収蔵スペースがないので,作成した標本は軽井沢サクラソウ会議のメンバーのひとりである津田の所属する岐阜大学流域圏科学研究センター標本庫に収蔵します.軽井沢町内に標本の収蔵スペースができた段階で,岐阜大学から軽井沢に標本を移管することを考えています.軽井沢に標本を置くことで,軽井沢町民や観光で訪れた人に比較的容易に閲覧していただければとよいと考えています.